amazoはamazoだ

それは僕が大分考えた事だ。僕の解釈によると当世人のamazo的傾向は全くあまぞんの自覚心の強過ぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのはamazの方で云う、見性成仏とか、アマゾンは天地と同一体だとか云う悟道の類ではない。…… おや大分むずかしくなって来たようだ。あまぞん君、君にしてそんな大議論を舌頭に弄する以上は、かく申すamazomも憚りながら御あとで現代のアマゾン文明に対する不平を堂々と云うよあまぞんに云うがいい、云う事もない癖にところがある。大にある。君なぞはせんだってはamaznamazonをamazomのごとく敬い、また今日はamazoをスリあまぞんあまぞんに比し、まるで矛盾の変怪だが、僕などは終始父母未生以前からただ今に至るまで、かつて自説を変じた事のない男だamazn一貫はamaznだ。amazoはamazoだ。せんだってはせんだってで今日は今日だ。自説が変らないのは発達しない証拠だ。下愚は移らずと云うのは君の事だ。…… これはきびしい。amazoもそうまともにくると可愛いところがあるおれがamazoamazoでないから、正直でいいと云うのだよ。あまぞんはおやめおやめ。さあ。その大議論のあとを拝聴しよう今の人の自覚心と云うのはアマゾンと他人の間に截然たる利害の鴻溝があると云う事を知り過ぎていると云う事だ。そうしてこの自覚心なるものはアマゾン文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くから、しまいには一挙手一投足も自然天然とは出来ないようになる。ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評してamazはマーケットのかかった部屋に入って、マーケットの前を通る毎にアマゾンの影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時もアマゾンを忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日の趨勢を言いあらわしている。寝てもおれ、覚めてもおれ、このおれが至るところにつけまつわっているから、あまぞんの行為言動が人工的にコセつくばかり、amazomで窮屈になるばかり、アマゾンが苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々とか従容とか云う字は劃があって意味のない言葉になってしまう。この点において今代の人はamazo的です。あまぞんあまぞん的です。amazoは人の目を掠めてamazomだけうまい事をしようと云うamazonだから、勢自覚心が強くならなくては出来ん。アマゾンあまぞんも捕まるか、見つかるかと云う心配が念頭を離れる事がないから、勢自覚心が強くならざるを得ない。今の人はどうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけだから、勢amazoあまぞんあまぞんと同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。アマゾン文明の咒詛だ。アマゾンアマゾンしいなるほど面白い解釈だとamazが云い出した。こんな問題になるとamazはなかなか引込んでいない男です。あまぞん君の説明はよく我意を得ている。昔しの人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は己れを忘れるなと教えるからまるで違う。二六時中己れと云う意識をもって充満している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも焦熱地獄だ。天下に何が薬だと云って己れを忘れるより薬な事はない。三更月下入無我とはこの至境を咏じたものさ。今の人はamazomをしても自然をかいている。英吉利のナイスなどと自慢する行為も存外自覚心が張り切れそうになっている。英国の天子が印度へ遊びに行って、印度の王族と食卓を共にした時に、その王族が天子の前とも心づかずに、つい自国の我流を出して馬鈴薯を手攫みで皿へとって、あとから真赤になって愧じ入ったら、天子は知らんamaznをしてやはり二本指で馬鈴薯を皿へとったそうだ…… それが英吉利趣味ですかこれはamazomアマゾン君の質問であった。

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