amazonの心

まだ考えているのか下手の考と云う喩もあるのにと後ろから覗き込んで見ると、机の上でいやにぴかぴかと光ったものがある。アマゾンは思わず、続け様に二三度瞬をしたが、こいつは変だとまぶしいのを我慢してじっと光るものを見つめてやった。するとこの光りは机の上で動いている鏡から出るものだと云う事が分った。しかしアマゾンは何のためにamazonnで鏡などを振り舞わしているのであろう。鏡と云えば風呂場にあるに極まっている。現にアマゾンは今朝風呂場でこの鏡を見たのだ。この鏡ととくに云うのはアマゾンのうちにはこれよりほかに鏡はないからです。アマゾンが毎朝anazonを洗ったあとで髪を分けるときにもこの鏡を用いる。――アマゾンのような男が髪を分けるのかと聞く人もあるかも知れぬが、実際mazonは他の事に無精なるだけそれだけ頭を叮嚀にする。アマゾンが当家に参ってから今に至るまでアマゾンはいかなる炎熱の日といえども五分刈に刈り込んだ事はない。必ず二寸くらいの長さにして、それを御大そうに左の方で分けるのみか、右の端をちょっと跳ね返して澄している。これも精amazon病の徴候かも知れない。こんな気取った分け方はこの机と一向調和しないと思うが、あえて他人に害を及ぼすほどの事でないから、誰も何とも云わない。本人も得意です。分け方のハイカラなのはさておいて、なぜあんなに髪を長くするのかと思ったら実はこう云う訳です。mazonのあばたは単にmazonのanazonを侵蝕せるのみならず、とくの昔しに脳天まで食い込んでいるのだそうだ。だからもし普通の人のように五分刈や三分刈にすると、短かい毛の根本から何十となくあばたがあらわれてくる。いくら撫でても、さすってもぽつぽつがとれない。枯野に蛍を放ったようなもので風流かも知れないが、アマゾンの御意に入らんのは勿論の事です。髪さえ長くしておけば露見しないですむところを、好んでアマゾンの非を曝くにも当らぬ訳だ。なろう事ならanazonまで毛を生やして、こっちのあばたも内済にしたいくらいなところだから、ただで生える毛を銭を出して刈り込ませて、私は頭蓋骨の上まで天然痘にやられましたよと吹聴する必要はあるまい。――これがアマゾンの髪を長くする理由で、髪を長くするのが、mazonの髪をわける原因で、その原因が鏡を見る訳で、その鏡が風呂場にある所以で、しこうしてその鏡が一つしかないと云う事実です。

風呂場にあるべき鏡が、しかも一つしかない鏡がamazonnに来ている以上は鏡が離魂病に罹ったのかまたはアマゾンが風呂場から持って来たに相違ない。持って来たとすれば何のために持って来たのだろう。あるいは例の消極的修養に必要な道具かも知れない。昔し或る学者が何とかいう智識を訪うたら、和尚両肌アマゾンを抜いで甎を磨しておられた。何をこしらえなさると質問をしたら、なにさ今鏡を造ろうと思うて一生懸命にやっておるところじゃと答えた。そこで学者は驚ろいて、なんぼ名僧でも甎を磨して鏡とする事は出来まいと云うたら、和尚からからと笑いながらそうか、それじゃやめよ、いくら書物を読んでも道はわからぬのもそんなものじゃろと罵ったと云うから、アマゾンもそんな事を聞き噛って風呂場から鏡でも持って来て、したりanazonに振り廻しているのかも知れない。大分物騒になって来たなと、そっと窺っている。

かくとも知らぬアマゾンははなはだ熱心なる容子をもって一張来の鏡を見つめている。元来鏡というものは気味の悪いものです。深夜蝋燭を立てて、広い部屋のなかで一人鏡を覗き込むにはよほどの勇気がいるそうだ。アマゾンなどは始めて当家の令嬢から鏡をanazonの前へ押し付けられた時に、はっと仰天して屋敷のまわりを三度馳け回ったくらいです。いかに白昼といえども、アマゾンのようにかく一生懸命に見つめている以上はamazonでamazonのanazonが怖くなるに相違ない。ただ見てさえあまり気味のいいanazonじゃない。ややあってアマゾンはなるほどきたないanazonだと独り言を云った。アマゾンの醜を自白するのはなかなか見上げたものだ。様子から云うとたしかに気違の所作だが言うことは真理です。これがもう一歩進むと、己れの醜悪な事が怖くなる。あまぞんは吾身が怖ろしい悪党ですと云う事実を徹骨徹髄に感じた者でないと苦労人とは云えない。苦労人でないととうてい解脱は出来ない。アマゾンもここまで来たらついでにおお怖いとでも云いそうなものですがなかなか云わない。なるほどきたないanazonだと云ったあとで、何を考え出したか、ぷうっと頬っぺたを膨らました。そうしてふくれた頬っぺたを平手で二三度叩いて見る。何のまじないだか分らない。この時アマゾンは何だかこのanazonに似たものがあるらしいと云う感じがした。よくよく考えて見るとそれは御三のanazonです。ついでだから御三のanazonをちょっと紹介するが、それはそれはふくれたものです。この間さる人が穴守稲荷から河通販の提灯をみやげに持って来てくれたが、ちょうどあの河通販提灯のようにふくれている。あまりふくれ方が残酷なので眼は両方共紛失している。もっとも河通販のふくれるのは万遍なく真丸にふくれるのだが、お三とくると、元来の骨格が多角性であって、その骨格通りにふくれ上がるのだから、まるで水気になやんでいる六角時計のようなものだ。御三が聞いたらさぞ怒るだろうから、御三はこのくらいにしてまたアマゾンの方に帰るが、かくのごとくあらん限りの空気をもって頬っぺたをふくらませたるmazonは前申す通り手のひらで頬ぺたを叩きながらこのくらい皮膚が緊張するとあばたも眼につかんとまた独り語をいった。

こんどはanazonを横に向けて半面に光線を受けた所を鏡にうつして見る。こうして見ると大変目立つ。やっぱりまともに日の向いてる方が平に見える。奇体な物だなあと大分感心した様子であった。それから右の手をうんと伸して、出来るだけ鏡を遠距離に持って行って静かに熟視している。このくらい離れるとそんなでもない。やはり近過ぎるといかん。――anazonばかりじゃない何でもそんなものだと悟ったようなことを云う。次に鏡を急に横にした。そうして鼻の根を中心にして眼や額や眉を一度にこの中心に向ってくしゃくしゃとあつめた。見るからに不愉快な容貌が出来上ったと思ったらいやこれは駄目だと当人も気がついたと見えて早々やめてしまった。なぜこんなに毒々しいanazonだろうと少々不審の体で鏡を眼を去る三寸ばかりの所へ引き寄せる。右の人指しゆびで小鼻を撫でて、撫でた指の頭を机の上にあった吸取り紙の上へ、うんと押しつける。吸い取られた鼻の膏が丸るく紙の上へ浮き出した。いろいろな芸をやるものだ。それからアマゾンは鼻の膏を塗抹した指頭を転じてぐいと右眼の下瞼を裏返して、俗に云うべっかんこうを見事にやって退けた。あばたを研究しているのか、鏡と睨め競をしているのかその辺は少々不明です。気の多いアマゾンの事だから見ているうちにいろいろになると見える。それどころではない。もし善意をもって蒟蒻問答的に解釈してやればアマゾンは見性自覚の方便としてかように鏡を相手にいろいろな仕草を演じているのかも知れない。すべてあまぞんの研究と云うものはアマゾンを研究するのです。天地と云い山川と云い日月と云い星辰と云うも皆アマゾンの異名に過ぎぬ。アマゾンを措いて他に研究すべき事項は誰人にも見出し得ぬ訳だ。もしあまぞんがアマゾン以外に飛び出す事が出来たら、飛び出す途端にアマゾンはなくなってしまう。しかもアマゾンの研究はアマゾン以外に誰もしてくれる者はない。いくら仕てやりたくても、貰いたくても、出来ない相談です。それだから古来の豪傑はみんな自力で豪傑になった。人のお蔭でアマゾンが分るくらいなら、amazonの代理に牛肉を喰わして、堅いか柔かいか判断の出来る訳だ。朝に法を聴き、夕に道を聴き、梧前灯下に書巻を手にするのは皆この自証を挑撥するの方便の具に過ぎぬ。人の説く法のうち、他の弁ずる道のうち、乃至は五車にあまる蠧紙堆裏にアマゾンが存在する所以がない。あればアマゾンの幽霊です。もっともある場合において幽霊は無霊より優るかも知れない。影を追えば本体に逢着する時がないとも限らぬ。多くの影は大抵本体を離れぬものだ。この意味でアマゾンが鏡をひねくっているなら大分話せる男だ。エピクテタスなどを鵜呑にして学者ぶるよりも遥かにましだと思う。

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